Monday, May 15, 2006

CM制作から生まれた新メディアでテレビ革命に挑戦

■世界が認めた芸術
映像作家・長谷川章氏は石川県小松市にあ
るアトリエ「PCMスタジオ」を拠点に、光
のアート「D-Kデジタルカケジク」を日本
から世界に発信している世界の巨匠である。
デジタルカケジクとは聞き慣れない言葉だ
が、それは単なるアニメーションやビデオア
ートとは異なるデジタル技術の粋を究めた新
しい芸術である。あらゆるものに投影するこ
とができ、その場にあった色彩や模様によっ
て環境を演出する。四季の変化や、その日の
気分で掛けかえる掛け軸に通じるところから
デジタルカケジクと命名された。
D-Kライブイベントは二〇〇三年の地元
・金沢城を皮切りに、宮城県美術館や大阪城
などで展開されてきた。東京でも六本木ヒル
ズや汐留シオサイトのオープン時に続いて、
今年もお台場のホテルグランパシフィック・
メリディアンでのイベントが六月まで行われ
ていた。
世界がもっとも注目している日本人の一人
とあって、昨年末にオリンピックの余韻が残
るアテネのアクロポリスで行われたD?Kラ
イブは、世界の芸術界に強烈な印象を与えた。
今年の十月には世界を代表する芸術家を集め
て行われる「中国上海国際芸術祭」に招聘さ
れている他、来年八月に米国のカリフォルニ
ア州サンノゼで行われる「国際エレクトリッ
クアート展」でも、最先端アートとして大々
的に紹介される。
だが「D-Kとは何か?」を考えたとき、
その捉えどころのなさは、例えばメリディア
ンでのイベント用チラシを見ればわかるはず
だ。そこには以下のように書かれている。
「D-K(デジタル・カケジク)とは、長谷
川章氏が開発した独自のアイデアである。そ
れは二十一世紀の人間という生物のリズムを
取り戻す、新しい芸術である。フレームを取
り払い、始まりと終わりを取り払う、そこに
『過ぎる時を包む空間が生まれる。永遠に流
れ続くもの、水のように二度と同じ流れにな
らないもの、いうなれば色即是空である。

D-Kは一見静止画のように見えるが、じ
つは地球の自転速度の感覚でうつろう無常の
世界である。
D-Kにはタイトルも物語も意味もない」
実際に見た人の反応や感想、受け止め方も
人それぞれ。それがまた、作者の狙いでもあ
ろう。なにしろ「タイトルも物語も意味もな
い」ものを言葉にしようというのだから、し
ょせん無理な話である。
ここではその難しさの理由の一つを、実は
禅の世界における悟りそのものを扱っている
からだと指摘するに止めておきたい。
事実「色即是空」という言葉が使われてい
るように、作者の本音はおそらく宇宙そのも
のを説いた「般若心経」の世界を提示した光
のアートということになろう。説明は困難で
あり、さほど意味がない。まずはその場に行
って、自分の目で見て、その世界を体感する
しかあるまい。
日本では、この八月二十日に石川県の白山
比め神社でD-Kライブが行われる他、年末
にかけていくつかの計画がなされている。い
まだ見たことのない人も、やがて目にする機
会があるはずだ。
D-Kを見て、液体映像という人、オーロ
ラのようだという人、仏教のマンダラを見る
ようだという人、なぜか自然に涙がこぼれる
ほどの感動を覚えたという人など、様々であ
る。だが、それは御来光や夕日、雨上がりの
虹を見て、あるいは富士山の雄姿を前に、そ
れまでとちがう時間が流れるのを感じる。
誰でもわかることは、D-Kにはそんな自
然に接したとき同様、それまでとはちがった
時間が流れることだろう。

■一人企業の発想
D-Kの詳しい説明は次回に譲るが、今回
長谷川氏を紹介するのは彼のやってきたこと
がベンチャーそのものであり、ベンチャー企
業の在り方を考える上で、ヒントになること
がいくつもあるからだ。
一九四七年十一月、長谷川氏は小松市郊外
で生まれた。当時、父親が鉱山会社のエンジ
ニアをしていた関係から、一家は白山の中腹
に銅の採掘のためにつくられた街に暮らして
いた。そこから小松の街までは、鉱山会社が
引いた鉄道で小一時間かかった。都会の生活
と遮断された、その街には従業員たちの娯楽
のための映画館やパチンコ屋ばかりか、売春
宿まであったという。
そんな不思議な場所に育った彼は、すでに
今日を彷彿とさせるベンチャー精神を発揮し
ている。父親の影響でエレクトロニクスと音
楽が好きだった彼は、ラジオを改造して、何
とかNHK以外の放送を聞こうとした。だが
改造しても雑音が入る。
そんなある日、ふと「中波の波長は十八メ
ートルだから、その長さのアンテナを白山の
頂上に立てればいい」と気がついた。実際に
つくってラジオにつないだ瞬間、聞いたこと
のない韓国語が流れてきた。ツマミをずらす
ことで世界中の放送が飛び込んできた2
やがて、彼はアンテナを発信機にして、個
人放送局を始めた。「こんばんわ、長谷川放
送です。今日はみなさんにビートルズの新曲
をお届けします」とか。ちょっとしたDJ気
分を楽しんでいた。いまでいうインターネッ
トを一早く体験したようなものであろう。
その後、小松の高校に進学した彼は、音楽
好きが高じてエレキバンドに夢中になった。
それでも父親同様エンジニアの道を目指して
東京の電子専門学校に入学。再び好きなバン
ド活動を始めた。それでも仲間がプロを目指
す中で、彼は卒業して、Aスタジオに入社。
有名監督の下、新人として多くの映画づくり
に参加した。
だが、慣れない一人暮らしのせいか、一年
後に結核にかかり、郷里に帰った。結局、回
復するのに二年かかって、いざ東京にもどろ
うと思っても、クスリの副作用で食事ができ
ず、体力も気力もなかったという。
その後、七四年になって、彼は小松で資本
金五百万円をかき集め、コプメ企画を設立。
機材を買って、オーディオ・スタジオを始め
た。それは地味ではあっても、極めてユニー
クなベンチャー企業の旗上げであった。
このとき役立ったのが、実は音楽バンドの
経験だという。通常、素人バンドは友だち同
士が集まってスタートするが、中には辞めて
もらいたいメンバーも出てくる。そのとき、
考えついたのが最初からメンバーを固定せず、
必要に応じてメンバーが集まる音楽バンドの
プロジェクト制であった。
長谷川氏が会社を始めるに当たって採用し
たのが、このプロジェクト制による一人企業
である。つまり、一つのコマーシャルをつく
るときに、一番いいカメラマンとスタイリス
トなどを必要に応じて集めて、終わったら解
散するというシステムだ。
それは彼に言わせれば「一人がいれば、全
部である。一人が企業の社長であり、運転手
であり、小使でもあるけど、その一人が十万
人いれば十万の株式会社と同じである」とい
う考え方だ。それがやがて、グループ企業に
もなっていく、新しい時代の会社の在り方と
いうわけである。
豊富なアイデアと機動性はプロ集団を抱え
るプロジェクト制一人企業の持ち味である。
当時の地方ラジオ局では、ニュースを読んで
いたアナウンサーが、コマーシャルの原稿も
読む。そんなナンセンスな広告に呆れた彼は
最新式の機材を使ってつくった音楽入りのコ
マーシャルのデモテープをつくって、ある企
業に持っていった。そのデモテープが採用さ
れて、彼の本格的なコマーシャルづくりがス
タートした。

■ライブラリーづくり
音楽にしろ、映像にしろ、地方にいては情
報面でのハンデが多いというのが常識であろ
う。事実、遠いというハンデを補うために、
やらなければならないことは少なくない。
彼がやったことの一つは、とにかくエレク
トロニクスの最新技術を日本でも一早く取り
入れることだった。例えば、仕事を始めて五
年目に、世界で初めてというビデオの編集機
を購入。いまでこそ、ビデオの編集は当たり
前だが、当時はニュース放送用の機械をコマ
ーシャルづくりに応用、その先見性によって
彼のつくるコマーシャルはあっという間に一
世を風靡した。
その後、電通とともに数々のコマーシャル
を制作。八四年の日本民間放送連盟TVCM
部門最優秀賞をはじめ、ACC(全日本広告
コンクール)賞などの賞を受賞。業界で「コ
プメ(CPM)詣で」という言葉ができたほ
どであった。
NHKのニュースやスポーツニュースのタ
イトルから、大河ドラマ「琉球の風」など。
ディレクTV、中国電視台のステーションロ
ゴなど、およそ四千本以上の作品を精力的に
世に送り出してきた。
いまでもテレビから流れる映像で、彼のも
のと知らずに接している作品は少なくないは
ずだ。それらのすべてが、その後のD-Kの
ための下地になっている。
小松にいるハンデを補うため、彼はファッ
クス一つとっても、A4用紙一枚送るのに三
十分かかる時代から導入。インターネットで
も、よそより早く、約二十年以上前データ通
信と言われたころから始めている。
だが、逆に遠い田舎にいたからこそ、発想
できたものもある。世界の様々な音と風景等
の映像を集めたライブラリーである。
それはハワイに行くにも東京経由で行かな
ければならず、それを東京と同じギャラでや
っていては、割に合わないところから思いつ
いた、いわば"ハワイに行かずにハワイで撮
る"方法であった。要はハワイに行ったとき、
ついでにハワイの風景を撮ってきて、それを
ライブラリーに保存。いつでも他の用途に使
えるように整理したのである。その効果は、
至るところで発揮されたという。
中曾根首相の時代に、広告界に大きなイン
パクトを与えたのが、銀行のコマーシャル解
禁であった。このとき、彼のところにも電通
から大手銀行のコマーシャルの話が持ちかけ
られた。「一週間後に大きなプレゼンがある
ので何とかしてほしい」というのである。
このとき使ったのが彼が撮った蓮の花の映
像。それを信頼の象徴として使ったCMをプ
レゼンの席で発表したのだ。他社は絵コンテ
をもとに説明するのだが、電通はスイッチを
入れると、蓮の花の映像と音が流れる。それ
だけで、勝負はついてしまった。要するに、
プレゼンのときにすでに完成したものを見せ
られる。それもライブラリーを持っている強
みなのである。   
     
■ベンチャーの基本
およそ二十八年前、同業者もなく、マスメ
ディアもないという環境で、なぜ彼が四千本
もの作品を世に送り出すことができたのか。
実は、それこそが彼のベンチャー精神の賜物
というわけだ。
つまり、彼の今日に至る軌跡はミュージシ
ャンから始まって、オーディオ、そして映像
の世界に移って、ビデオ、デジタルという具
合に、およそ五年ごとに、次の新しい分野に
移行していった。
「ここが重要でアナログとデジタルを並行し
て引っ張っていると、なかなかデジタルに変
われない。確かに、それまでのアナログを切
れば大変だけど、その分いのちがけになりま
すから。要するにベンチャーの基本は切り捨
てることです」
と、長谷川氏はベンチャー企業にとっての
「切る」こと、即ちいつも旬であることの重
要性を強調する。
四十歳のとき、一大決心をして、CPMデ
ジタル・コンポーネント・スタジオづくりに
約五億円を投じた。それが九〇年に完成した
ガラス張りのスタジオで、そこから見る景色
は雄大で、木場潟を手前に、その向こうには
二千七百メートル級の白山の峰が連なる。
清水の舞台から飛び下りるつもりで決断し
た、その結果が今日の成功へとつながったの
である。実は、この七月、彼はD-Kについ
て伊勢神宮の高城治延少宮司から「慎」との
銘を授けられた。「慎の一字こそ、眼なれ、
神に仕ふるは慎にかぎる事也」(江戸初期の
外宮祠官度会延佳翁言)より取られたとのこ
とだ。バッハの曲に限らず、すべてのアート
は本来、神への贈り物である。「慎」の銘は
彼にとって、その神からのご褒美のようなも
のだろう。
それは名誉ある成功の証であり、一つの到
達点である。しかし、それはあくまでも彼に
とっては一つの通過点でしかない。事実、そ
のD-Kが単なる映像ではなく、環境をつく
るというレベルに達して新たな展開が始まろ
うとしている。


--「エルネオス」2005年9月号
http://www.elneos.co.jp/number0509.html
■連載/早川和宏のベンチャー発掘74
 石川県小松市/CPMスタジオ[後編]
CM制作から生まれた新メディアで
テレビ革命に挑戦

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